大正時代の詩歌俳句および演劇

大正時代の詩歌俳句および演劇

 

口語詩が次第に完成されていき、室生犀星、佐藤春夫、山村暮鳥らがそれを高めた。とくに『道程』(1914年)の高村光太郎、『月に吠える』(1917年)、『青猫』(1923年)の萩原朔太郎は口語自由詩を確かなものにした。一方、堀口大學は訳詩集『月下の一群』(1925年)を発表、この時期に再評価された上田敏の訳詩集『海潮音』とともに、名訳詩集として高い世評を得た。

宮沢賢治は岩手県の風土に根ざした数多くの詩と童話を書いたが、生前に刊行されたのは『春と修羅』(1924年)・『注文の多い料理店』(1924年)の2冊のみであった。宮沢の作品が評価を受けるのは彼の死後のことであり、特に草野心平の尽力によるところが大きい。

短歌では、正岡子規の精神を受け継ぎ、「アララギ」を舞台とする写実的なアララギ派が主流となる。中心人物は伊藤左千夫や長塚節らで、左千夫の死後は島木赤彦が積極的に活動し、アララギ派の地位を向上させた。同派の斎藤茂吉は歌集『赤光』(1913年)で万葉調の中に近代的抒情を歌った。

俳句は、新傾向俳句を創作した河東碧梧桐の門下荻原井泉水が、「層雲」を開き自由律俳句を確立させた。これには尾崎放哉、種田山頭火が参加。のち「層雲」を離れた碧梧桐は「海紅」を主宰し中塚一碧楼がこれを継いだ。ただし主流は、定型と季題を重視する高浜虚子らの「ホトトギス」であった。

自由劇場や芸術座の活動が演劇界に大きな影響を与え、戯曲の創作が盛んになった。岡本綺堂の『修善寺物語』(1911年)、倉田百三の『出家とその弟子』(1916年)、菊池寛の『父帰る』(1917年)などの作品が発表された。