大正時代の文学,反自然主義の諸相

大正時代の文学,反自然主義の諸相

谷崎潤一郎

自然主義文学が文壇の主流を占める中で、20世紀の初め(明治時代の末期)から夏目漱石や森鴎外といった反自然主義文学運動が起こった。

当初自然主義文学に傾倒していた永井荷風は、欧州から帰国後、『ふらんす物語』(1909年)を発表。荷風に激賞された谷崎潤一郎は『刺青』(1910年)や『痴人の愛』(1924年)などを書き、後期ロマン主義とも呼ばれる耽美派が生まれた。これは「スバル」「三田文学」を中心に活動した。ほかに佐藤春夫、久保田万太郎に代表される。

これに対し、自由・民主主義の空気を背景に、「白樺」で活動した白樺派の人々は、人道主義を主張した。『お目出たき人』(1911年)『友情』(1919年)の武者小路実篤や、『和解』、『城の崎にて』(ともに1917年)の志賀直哉、『或る女』(1919年)の有島武郎、『多情仏心』(1922年)の里見弴らである。特に志賀直哉の私小説・心境小説は純文学の規範として同時代の若い作家たちに多大な影響を与えた。

芥川龍之介

大正時代(1912年 – 1926年)の中期からは東京帝大系統の「新思潮」で活動する新現実主義が漱石や鴎外の影響の下に現れ、芥川龍之介や菊池寛、山本有三、久米正雄らの活動があった。芥川は『鼻』(1916年)で登場し、古典に取材した数多くの短編などで大正文壇の寵児となった。一方、劇作家として知られた菊池寛は歴史小説や通俗小説を、山本有三は健康的な教養小説を書き、活躍した。芥川は1927年、『河童』と『歯車』という傑作を書いた後に自殺した。芥川の自殺は時代への不安を示すものとして、知識人や作家に衝撃を与えた。
物語性を重視する谷崎潤一郎に対して、芥川は「“筋の面白さ”のみが小説の価値ではない」と芸術至上主義を擁護し、文学論争となった直後の死であった。

また、奇蹟派(新早稲田派)と呼ばれる広津和郎や葛西善蔵、宇野浩二、嘉村礒多らによって私小説が書かれた。人間内部の心理の現実を深く見つめるもので、人生の暗さが描かれた。