明治時代の詩歌俳句および演劇

明治時代の詩歌俳句および演劇

詩では、外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎によって『新体詩抄』(1882年)が刊行され、新体詩が盛んになる。

ドイツから帰国した森鴎外は翻訳詩集『於母影』(1889年)を、北村透谷は『楚囚之詩』(1889年)、『蓬莱曲』(1891年)を出版した。

透谷の「文學界」に参加していた藤村は『若菜集』(1897年)を、藤村と並称された土井晩翠は、『天地有情』(1899年)を刊行。これらロマン主義的な詩は浪漫詩と呼ばれる。「文庫」では河井醉茗、横瀬夜雨、伊良子清白が活動した。

象徴詩では薄田泣菫、蒲原有明が活躍し、その後を受けて北原白秋、三木露風らが台頭。「白露の時代」と呼称された。

薄田泣菫や蒲原有明らの象徴詩には、上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年)の影響がみられるが、『海潮音』そのものが一般に知られ、名詩集としての評価が定着するのは上田の死後の大正期のことである。

ロマン主義のうち、短歌では与謝野鉄幹が「明星」を創刊、与謝野晶子は『みだれ髪』(1901年)を発表した。この一派であった石川啄木、窪田空穂も活躍を見せたが、特に啄木は自然主義に転じ『一握の砂』(1910年)と『悲しき玩具』(1912年)を刊行した。

また啄木同様に自然主義の影響下に、若山牧水の『別離』(1910年)や土岐哀果の『NAKIWARAI』(1910年)なども生まれた。竹柏会を主催した佐佐木信綱は、「心の花」を創刊。正岡子規は『歌よみに与ふる書』(1898年)を発表し根岸短歌会を開き、伊藤左千夫、長塚節らが参加した。

北原白秋、吉井勇らはパンの会を起こし、耽美派に繋がる歌を読んだ。

俳句では、正岡子規や「ホトトギス」を中心に、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが輩出された。

また、演劇界にも自然主義の影響があり、逍遥、島村抱月らが文芸協会を立て、イプセンの『人形の家』の上演などを行った。

文芸協会の解散後、抱月は松井須磨子らとともに芸術座を設置しL.トルストイの作品などを上演、『復活』が評判となった。このほか、小山内薫、2代目市川左團次により、自由劇場の活動が見られた。