日本の近代文学史-自然主義と反自然主義

日本の近代文学史-自然主義と反自然主義

島崎藤村

20世紀の初め(明治時代の末期)になると、ゾラやモーパッサンといった作家の影響を受け、自然主義文学が起こった。
ヨーロッパの自然主義は当時の遺伝学・社会学などの知見を取り入れ、客観的な描写を行うものであったが、日本では現実を赤裸々に暴露するものと受け止められた。日本における自然主義文学は、島崎藤村の『破戒』(1906年)に始まり、後に田山花袋の『蒲団』(1907年)によって方向性が決定づけられたとされる。

花袋の小説は私小説の出発点ともされ、以後日本の小説の主流となった。他の自然主義作家としては、国木田独歩、徳田秋声、正宗白鳥らがいた。秋声は『新世帯』(1908年)を、白鳥は『何処へ』(1908年)を、花袋は『田舎教師』(1909年)を、藤村は『家』(1910年)、『新生』(1918年)を発表した。

夏目漱石

この自然主義の流れに相対する形で存在していたのが、後述の反自然主義文学と呼ばれる潮流である。夏目漱石や森 鴎外、後には耽美派・白樺派・新現実主義が反自然主義に分類される。

漱石と鴎外は日本近代文学を代表する作家としてしばしば並び称され、それぞれ余裕派、高踏派と呼ばれる(漱石の影響を色濃く受けていた後期は余裕派に含まれることもある)。

当初写生文や漢詩、俳句を著していた漱石は、高浜虚子の勧めで執筆した『吾輩は猫である』(1905年)で文壇に登場した。続いて発表した『坊ちゃん』、『草枕』(ともに1906年)などの作品で自然主義文学とは異なる作風を示し、前期三部作と呼ばれる『三四郎』(1908年)、『それから』(1909年)、『門』(1910年)で文明を獲得した近代知識人の内面を描いた。

修善寺の大患後に『こゝろ』(1914年)、『明暗』(1916年)といった作品で、人間の利己を追い求めた。また、?外も漱石の旺盛な執筆活動に刺激されて創作活動を再開、『青年』(1910年)、『雁』(1911年)などの現代小説を書いた後、『渋江抽斎』(1916年)など史伝・歴史小説に転じた。