日本の近代文学史-写実主義とロマン主義

日本の近代文学史-写実主義とロマン主義

二葉亭四迷

日本の近代文学は、坪内逍遥の『小説神髄』(1885年)によって実質的に出発し、二葉亭四迷は『小説総論』(1886年)を書いた。
前者をもとに逍遥は『当世書生気質』(1885年)を書いたが、戯作の風情を多分に残していた。それらを克服して1887年に発表された四迷の『浮雲』は、日本の近代小説のはじめとされる。

こうした写実主義的な近代小説が充実し始める一方、政治における国粋主義的な雰囲気の高まりにともなって、井原西鶴や近松門左衛門らの古典文学への再評価が高まった。1885年、尾崎紅葉、山田美妙らが硯友社をつくり、「我楽多文庫」を発刊した。

擬古典主義のもと、紅葉は『二人比丘尼色懺悔』(1889年)や『金色夜叉』(1897年)を発表した。幸田露伴は『露団々』、『風流仏』(ともに1889年)、『五重塔』(1891年)などの小説のほか、評論や古典の解釈など幅広く活躍した。紅葉と露伴の活躍した時期は「紅露時代」と呼ばれた。

森 鴎外

近代化が進むにしたがって、自我意識の目覚めは人間性の解放をもたらし、開放的な自由を求めるロマン主義文学が登場する。
森  鴎外はドイツでの経験を題材にした『舞姫』(1890年)を発表し、自我の覚醒を描いた。また鴎外はアンデルセン原作の『即興詩人』(1892年)を訳し、典雅な擬古文体によって詩情豊かな恋物語を伝え、広く愛読された。北村透谷は近代的自我の内面の充実を主張した評論『内部生命論』(1893年)を書いた。

樋口一葉

代表作『たけくらべ』、『にごりえ』(ともに1895年)が?外・露伴の激賞を受け注目されるが、24歳の若さで死去した。

泉鏡花

『高野聖』(1900年)、『歌行燈』(1910年)といったロマン的情緒の深い作品を発表し、幻想的・神秘的な独自の世界を拓いた。

国木田独歩

自然美を随筆的に描いた『武蔵野』(1898年)を発表し、キリスト教人道主義者の徳冨蘆花は社会的視野を持った家庭小説『不如帰』(1899年)を発表した。独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化していった。日本のロマン主義文学は、西欧のそれに比べて短命であった。