平家物語 <あらすじ、要約> 

平家物語 <あらすじ、要約>

平家物語 は、平家の 繁栄 ~ 滅亡 までの物語です。
作品自体は1212~1240年の間に書かれたと考えられますが、その後に何度も手が加えられて、内容は大きく変わっています。
また 平家物語 は、 保元(ほげん)物語 や 平時(へいじ)物語 とともに、琵琶法師が話す題材だったため、異本が多く存在し、なかには史実とかけ離れてしまった物語もあります。

展開だけを読むと 傲慢な平家が滅んだ というストーリーをイメージ しますが、その背景には、

□ 因果応報 (原因としての善い行いをすれば,善い結果が得られ,悪い行いは悪い結果をもたらすとする)
□ 無常観(すべては変化する)

といった仏教の教えが強く反映されています。

 

平家物語<あらすじ 要約>

この一門にあらざらむ人は皆、人非人(にんぴにん)なるべし

(平家にあらずんば 人にあらず —>平時忠の発言)

□ 人を馬鹿にし、わがままな振る舞いをしている人でも、そのさまが永久に続くわけではないでしょう

□ 勢いある者でもいつかは滅んでしまうでしょう

□ 桓武(かんむ)天皇の子孫である 平忠盛(たいらのただもり) は念願の殿上人

(てんじょうびと)となりました

□ 忠盛の息子こそ 平清盛(たいらのきよもり) であり、平家の悪行は始まっていきました

□ 清盛はまず 妻の妹 を 後白河院(ごしらかわいん) と結婚させ、その間に 子供      (高倉天  皇) をもうけさせたました

□ 次に清盛は、高倉天皇と自分の娘である 徳子(とくこ) を結婚させ、自らを現天皇の親せきと 位置付けたました

□ この頃、すでに平家の多くは高い役職についており、全国の半分以上の領土を平家一族が支配するまでになりました

□ 世論からは強く非難されたが、平家の傲慢さは激しさを増していくばかりでありました

□ 高倉天皇と徳子との間に子供(安徳天皇)ができると、清盛は高倉天皇の譲位を推し進め、自らの孫に強引に皇位を継承させました

□ 高倉天皇(正確には上皇)は、清盛に幽閉された父□後白河法皇を助け出そうとするが、平家一族の傲慢さは収まらず、ついには病死してしまいました

□ 世間の反感はいっそう強まっていき、法皇はついに平家討伐を決意しました

 

平家 対 源氏の対決の歴史

□ 1180年5月□宇治川の戦い、源頼政(みなもとのよりまさ)軍は平家軍に大敗

□ 1180年8月□石橋山の戦い、源頼朝(よりとも)が挙兵するも平家軍に大敗

□ 1180年10月□富士川の戦い、源頼朝軍の不戦勝(平家軍が水鳥の羽音を敵軍と勘違いし逃げ出した)

□ 1183年5月□倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い、木曽義仲(きそよしなか)軍が平家軍に大勝

□ 1183年5月□篠原の戦い、木曽義仲□源氏軍が平家軍に勝利

□ 1183年10月□永島の戦い、木曽義仲軍が平家軍に大敗

□ 1184年1月□宇治川の戦い、源義経(よしつね)軍が木曽義仲軍に勝利

□ 1184年2月□一の谷の戦い、源義経軍が平家軍に勝利

□ 1185年2月□屋島(やしま)の戦い、源義経軍が平家軍に勝利

□ 1185年3月□壇の浦(だんのうら)の戦い、源義経軍が平家軍に勝利し平家滅亡

□ 平家は源氏に大敗し、一族は滅亡しました(一番の功労者であった源義経は、兄 頼朝によって奥州に追われた)

□ 平家で数少ない生き残りとなった徳子は、出家し一族の亡霊を供養するために後生をささげました

 

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